住所 | 白老町社台100 |
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電話 | 0144-82-2149 |
社台地区に残る、美しい小学校の跡地。
ウポポイ準備期間中は、この小学校で踊りの練習や職員の研修などが行われました。
現在は、ウポポイを運営するアイヌ民俗文化財団の事務所になっています。
私は、白老文化芸術共創の展示を観に初めて訪れました。
あまりにキレイな建物なので、その歴史が気になり…
校庭にあった「草刈運太郎」という人の墓碑も気になりました。
調べてみると、草刈運太郎はアイヌ民族とも深い関係のある人だということがわかりました。
目次
草刈運太郎墓碑
校庭には、仙台藩元陣屋の最後の代官であった草刈運太郎の墓碑があります。
1856年、ロシアの南下を防ぐため、幕府は仙台藩に命じ、白老に元陣屋を置きました。
1867年、草刈運太郎は代官に就任。
アイヌ民族の和人化と行政制度を作ることに努力したとされています。
しかしその年、江戸幕府が倒れ、新政府軍の追討軍がやってきます。
けれど、藩士たちは、幕府が倒れたことも、自分たちが新政府の敵になってしまったことも知りませんでした。
知らぬ間に、自分たちが国の敵になってたなんて…。
めちゃめちゃ怖いですね!
藩士たちは驚き、逃げ惑います。
日の丸船(つまり新政府軍の船)が見えた時、陣屋の侍たちはアイヌの服装をするために、アツシを着たり、顔に鍋墨を塗るなどしてアイヌの家に隠れ潜んだものだ。
会所のシャモ(和人のこと)は皆にげて浜にはアイヌだけになった。7人ほど、社台に逃げて相木の番屋に隠れた。
フッチ田畑アキさんのエピソードより
ここに出てくる7人の和人の中の一人が、草刈運太郎でした。
彼は、責任者として白老に残り、アイヌ民家に潜んでいたのです。
しかし、新政府軍の乱行を止めようとしてケガをし、相木林蔵の番屋に逃れます。
けれど、傷は癒えずに結局、運太郎さんは自害してしまいました。
運太郎さん、かわいそう…。
運太郎さんが自害した場所は、すぐ近くのヨコスト湿原だと言われています。
海の向こうの故郷・仙台の方を見ながら亡くなったそうです。
社台小学校に来たら、ヨコスト湿原も散歩してみてくださいね。
9人の生徒から始まった社台小学校
1892年、白老村の工藤卯太郎さんは、児童の教育のため、学校を作ることを決意しました。
社台中央の石川さんのお宅の一室を借り、仙台出身の近藤武雄さんを教員とし…
児童9人が、その一室で先生と勉強を始めました。
工藤さんは、寄付金や補助金を募り、校舎を建設。
1894年、公立社台簡易小学校を創立しました。
60年後の1954年には、新校舎ができます。
その時、9名から始まった学校の生徒数は、194名に増えていました。
しかしその建物も老朽化し、現在の校舎が建ったのが1990年。
社台は馬牧場が多い地域だったので、牧舎風の校舎が出来上がりました。
現在は社台の児童数が減り、2016年に白老小学校に統合されました。
すぐ近くにミナパチセがあります
ミナパチセでは、アイヌ料理やアイヌ刺繍教室が楽しめます。
不定休ですので、開店日をSNSでチェックしてから、行ってみてくださいね!
[…] 彼の墓碑は、旧社台小学校の校庭に、今も残されています。 […]