住所 | 白老町陣屋町681-4 |
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電話 | 0144-85-2668 |
OPEN | 9:30〜16:30 |
CLOSE | 月曜日(祝日にあたる場合は翌日) |
駐車場 | 普通車26台 大型バス可能 |
HP | 資料館が発行するかわら版 |
入館料 | 個人 300円(中学生以下150円)、団体 250円(中学生以下120円) |
1966年、国の史跡に指定された白老仙台藩元陣屋跡に併設して、1984年に開館しました。
元陣屋の絵図面や古文書、武具など約300点の資料を豊富に展示し、仙台藩による幕末の北方警備の歴史を伝えています。
解説は、私たち元陣屋資料館友の会にお任せください!
わーい!
では、仙台藩元陣屋とアイヌ民族との関係について教えてください。
白老の場所請負人・野口屋又蔵(のぐちや またぞう)
元陣屋ができる前の白老は、どんな場所だったんですか?
白老場所はもともと、1827年から野口屋又蔵という場所請負人が、松前藩から任されてニシンや鮭、昆布などを本州に輸出していたと言われています。
労働力となったのは、地元のアイヌ民族の人たちを含む雇われ漁夫です。
場所請負人って、なんか悪いイメージがありますよね。
確かに!
その頃、場所請負人からアイヌ民族への虐待が激しかったようです。
1820年代から1850年代にかけて、各地でアイヌ民族の人口が三分の一ほどに減った場所もありました。
ただし、白老場所では1807年に340人、1838年に360人、1854年に415人と、人口が減らなかったという記録があります。
アイヌ民族と和人の関係が、比較的良好だったからでしょうか?
そうですね。
彼とアイヌ民族との信頼関係は、比較的強かったと言われています。
この本を読むと、詳しいことがわかりますよ。
江戸幕府が蝦夷地を警備する
1854年、当時松前藩が支配していた蝦夷地に対して、幕府が実情調査を行いました。
その報告書の一節には
当時の蝦夷地請負人ら、アイヌ人を虐待し賃金は酒やタバコで誤魔化した上、飢えと寒さに苦しむ老人、子供までも風波狂う危険な漁業に追いやるため、中には溺れ死ぬものも多く、生き残った病人にはなんの手当てもしてやらない、このためアイヌたちは幕僚時代を懐かしみ夢に見るものもいるという。
もし、ロシア人の上陸を許すようになれば支配人、番人の苦しみから逃れたさのあまり、外国人に懐くようになり、将来北辺の守備兵にもなれるアイヌたちが逆に侵略の先兵となる恐れもある。
と、アイヌ民族の生活の困窮と、ロシアの南下を心配しています。
アイヌ民族が、ロシア側につくのを恐れたんですね!
そうですね。
そして1856年、幕府はロシア勢力の南下に備え、蝦夷地の警備を命じました。
白老を第二の故郷に
白老が元陣屋(陣屋の中心地)に選ばれた理由は、次のようなものです。
- 気候が穏やかで雪も比較的少ない
- 海や山に恵まれている
- アイヌ民族の400人ほどの集落があり、労働力となる
仙台藩元陣屋の建築は、アイヌ民族の労働力により、半年で完成しました。
しかし最初の頃は、仙台藩士たちは、慣れない環境で寒さや野菜不足に悩んだようです。
寒さや脚気、ビタミン不足などで、多くの藩士が命を落としたんですね…。
その様子は、資料館の展示でよく分かりますよ。
藩士たちは、アイヌ民族の力を借りて、なんとか冬を越したのです。
彼らは、白老に定住し、第二の故郷としようとしました。
その証拠に、仙台の赤松を敷地に沢山植えました。
故郷の景色を再現しようとしたんです。
そっか…。
仙台藩は、本気で白老に根づこうとしていたんですね。
そしてそのために、アイヌ民族と共生することが必要だったんですね。
白老からの脱出
しかし1867年、江戸幕府が倒れ、新政府軍は蝦夷地へ進出し、 元陣屋追討軍が白老にやってきます。
けれど、藩士たちは、幕府が倒れたことも、自分たちが新政府の敵になってしまったことも知りませんでした。
知らぬ間に、自分がお国の敵になってるなんて、めっちゃ怖い!
その逃亡を手助けしたのが、場所請負人・野口屋又蔵(三代)でした。
彼が元陣屋の人たちとも特別な関係にあったことが分かりますね。
撤退当時の様子について、フッチ田畑アキさんのエピソードを紹介します。
日の丸船(つまり新政府軍の船)が見えた時、陣屋の侍たちはアイヌの服装をするために、アツシを着たり、顔に鍋墨を塗るなどしてアイヌの家に隠れ潜んだものだ。
会所のシャモ(和人のこと)は皆にげて浜にはアイヌだけになった。7人ほど、社台に逃げて相木の番屋に隠れた。
白老町史より
ここに出てくる7人の和人の中に、最後の代官となった草刈運太郎という人がいました。
運太郎は、アイヌ民族の和人化と行政制度を作ることに努力したとされています。
彼は、新政府軍の上陸後も責任者として白老に残り、アイヌ民家に潜んでいました。
しかし、新政府軍の乱行を止めようとしてケガをし、相木林蔵の番屋に逃れます。
けれど、傷は癒えずに結局、運太郎は自害してしまいました。
運太郎さん、かわいそう…。
彼の墓碑は、旧社台小学校の校庭に、今も残されています。
館長に聞く アイヌ民族と仙台藩元陣屋
この動画は、元地域おこし協力隊員が2020年に作成した武永館長のインタビューです。
アイヌ民族と元陣屋の関係が、とってもわかりやすいですね!
資料館で2022年3月に発行した「白老のアイヌ伝承」という16ページの冊子もオススメです。
館内で無料で配布していますから、ぜひ手に取ってみてください。
これは…!!
当時の白老のアイヌ民族の暮らしの様子がリアルに描かれていますね。
白老のアイヌ民族のご祖先様たちは、これほど苦労して生きてきたんですね…。
おまけ〜甲冑の試着体験!〜
こちらの6種類の甲冑、なんと2022年の5月5日から、着ることが出来ます!
一回30分で、スタッフが着付けてくれます。
その後、写真も撮ってくれますよ!
要予約で、一人1000円かかりますが、めちゃくちゃ楽しいです!!
この体験をすれば、時代劇を見るときも、感じ方が変わるはず。
体験の様子は、こちらからどうぞ!
入り口のパッチワークは…
入ってすぐ左手の壁面には、みんなの心つなげる「巨大パッチワークの会」の作品が飾られていますよ。
[…] 校庭には、仙台藩元陣屋敷の3代目代官であった草刈運太郎の墓碑があります。 […]
[…] そして、江戸時代には仙台藩の陣屋敷があったり、和人が早くから住み着いた土地でもあります。 […]
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